ねぇ、気づいてた?
日本のお化け屋敷でも、テレビの怪談でも、絵本でも──幽霊には、足がない。
白い着物で、下半身がふわふわ霞んでて、地面に触れていない。それが「幽霊らしい姿」として、ずっと当たり前になってるの。
でも、これって日本だけなんだよ。西洋のゴーストは、シーツをかぶっていても足はある。中国の僵尸(キョンシー)も、足で跳ねて移動する。
じゃあ、日本の幽霊はいつ、どうして足を失ったの?
犯人とされているのは、江戸中期の絵師──円山応挙(まるやまおうきょ)。そして、彼が描いた一枚の幽霊画なの。
弘前の寺にかけられた「反魂香之図」
その絵は、青森県弘前市の久渡寺(くどじ)に今も所蔵されているの。名前は『反魂香之図(はんごんこうのず)』。
天明4年(1784年)2月3日、弘前藩の家老・森岡主膳元徳(もりおか しゅぜん もとのり)が、このお寺に寄進したって記録が残っているの。理由は、先立った妻と妾の供養のため。
愛した女性を二人亡くした男性が、京都にいた応挙に絵を描かせた。そしてその絵をお寺に納めて、冥福を祈った──そういう、しんみりする由来なんだよ。
令和3年(2021年)、この絵は弘前市の有形文化財に指定されたの。今でも毎年、旧暦5月18日にだけ、一般公開されているんだって。
応挙自身は、絵を依頼された時点でもう50歳を越えていた、京都画壇の大御所だった。「写生画の先駆者」と呼ばれた人で、目の前の対象を忠実に見て描くことを徹底した絵師なの。代表作には「雪松図屏風」や、動物をリアルに描いた「朝顔狗子図杉戸」なんかがあって、松も、子犬も、孔雀も、観察から描いた人だったんだよ。
そんな「目に見えるもの」を突き詰めた画家が、なぜ「目に見えないはずの幽霊」を描いたのか──それが、ちょっと不思議な問いなんだよ。
中国の故事と、もう一度会いたい香り
タイトルにある「反魂香」は、中国の故事から来た名前なの。
漢の武帝(ぶてい)が、最愛の妃・李夫人(りふじん)を亡くしたとき──悲しみに耐えかねた皇帝のために、道士・李少君(りしょうくん)が特別な香を焚いたっていう伝説があるの。
立ち上る煙。その中に、死んだ李夫人の姿が浮かび上がる──それが反魂香。
そもそも「反魂香」の元になった木は、『反魂樹(はんごんじゅ)』といって、伝説上の巨木なの。花や葉が楓に似ていて、百里先まで香るとされたの。その木から作った香を焚くと、亡き人の魂が煙の中に姿を見せる──詩的すぎて、本当にあったとは思えないんだけど、東アジアの人々はずっとこの物語を愛し続けてきたんだよ。
伝説は『漢書』に記録されて、やがて日本にも伝わって、『源氏物語』や『太平記』にも登場するようになった。応挙が生きた江戸の人々にとっても、「反魂香」は「死者にもう一度会える香」として、よく知られた物語だったの。
応挙が描いたのは、まさにその煙から立ち現れた女性の姿。だから下半身がすぼまって、足が見えない。香の煙の中から、すうっと浮き上がってきているように描かれているの。
家老の森岡元徳さんが依頼したのは、「亡き妻と妾に、もう一度会いたい」という思いだった、って考えると──反魂香の物語と、森岡家の供養と、応挙の筆が、ひとつの絵の中で重なっていく構図、なんだよ。
応挙は本当に「元祖」だったのか
でもね、美術史ではずっと議論があるの。「応挙が足のない幽霊を発明した」って、本当なの?って。
国文学者の諏訪春雄(すわ はるお)が、ある興味深い指摘をしているの。
寛文十三年(1673年)の浄瑠璃本の挿絵──つまり応挙が生まれる60年以上前の本に、すでに下半身のない幽霊の絵が描かれていたというの。
だから「足のない幽霊の発明者=応挙」という通説は、厳密には正しくないかもしれない。江戸の絵画・版本の世界には、もっと前から「足を省略する表現」があったんだよ。
じゃあ、なぜ応挙が「元祖」として語られるようになったんだろう?
ひとつは、応挙の絵の完成度の高さ。それまでの挿絵的な幽霊描写とは違って、応挙の『反魂香之図』は、一枚の独立した美術作品として、幽霊をどう描くかを明確に提示した作品だったの。煙・表情・衣の流れ・下半身が消える構図──全てが計算されている。
もうひとつは、応挙の弟子たち。京都の円山派は、応挙の没後も勢力を保って、幽霊画を含むさまざまなモチーフを全国に広めていった。結果として「幽霊といえば応挙」のイメージが強化されていったんだよ。
歌舞伎の舞台で、幽霊は足を隠した
絵画と並行して、もうひとつ流れがあったの。それが歌舞伎。
江戸時代の歌舞伎では、幽霊役を演じるときに「漏斗(じょうご)」と呼ばれる特殊な衣装が使われていたの。上が広くて下がすぼまっていく、円錐形の白い装束。役者の足を、完全に覆い隠してしまう形なんだよ。
舞台の照明は、ろうそくや油の灯り。薄暗がりの中で、白い衣装がゆらゆら揺れて、役者は「すり足」で静かに移動する。観客の目には「足を動かしている」感覚が消えて、宙に浮いて漂っている女性としか見えなくなるの。
諏訪春雄さんはこう分析しているの。歌舞伎の舞台装束と、応挙の絵は、お互いに影響し合っていた、って。役者が幽霊の姿を作り込むときには絵画を参考にして、絵師が幽霊を描くときには舞台を参考にする。視覚表現が、両方の現場を往復しながら定着していったんだよ。
『東海道四谷怪談』が決定づけたもの
応挙が『反魂香之図』を描いてから41年後──1825年(文政8年)7月、江戸の中村座で、ある歌舞伎が初演されたの。
『東海道四谷怪談』。作は4世鶴屋南北(つるやなんぼく)。お岩(いわ)を演じたのは3世尾上菊五郎(おのえきくごろう)、伊右衛門(いえもん)は7世市川団十郎。
この作品で、お岩の幽霊は戸板(といた)の裏表にくくりつけられて川に流れ着いたり、提灯(ちょうちん)から姿を現したり──さまざまな形で伊右衛門を追い詰めていく。その足のない姿が、舞台と絵本番付(えほんばんづけ)の両方で、徹底的に描き込まれたの。
絵本番付というのは、芝居の筋書きと場面を絵入りで紹介する、今でいうパンフレットのようなもの。そこに描かれた幽霊姿が観客に配られて、家に持ち帰られて、人々の記憶に焼き付いていった。
絵師たちも競って、お岩の幽霊を浮世絵に描いたの。葛飾北斎、歌川国芳、月岡芳年──それぞれが、足のない姿として定着させていった。
応挙の静かな一枚から始まった流れが、四谷怪談で一気に「日本の幽霊の標準形」になった、って言えるかもしれない。絵と舞台と文学が、この時期にぎゅっと束ねられたんだよ。
足を消すことは、境界を書き直すこと
ねぇ、考えてみて?
足って、人が「地面に立つ」ための器官でしょう。地面に触れて、重さを持って、生きている側の空間に属している証拠。
その足を消すっていうのは、「もう、この世に立っていない」という視覚的な宣言なんだよ。下が霞んで、空間のどこに存在しているのかもわからない。生者の地面と、死者の世界の境界を、絵の中でふわっと溶かしてしまう。
応挙が家老の依頼で描いた『反魂香之図』は、もともとは愛した人の供養のための絵だった。「もう一度だけ会いたい」という願いの形。でもその願いは、死者が「もうこの世のものではない」ことを、同時に受け入れる儚さも内包していたの。見えるけれど、触れられない。来てくれたけれど、地面には立てない。
240年経った今、わたしたちが思い浮かべる幽霊は、ほぼあの姿のまま。足のない、白い着物の、下半身の見えない人影。
──弘前の久渡寺では、今も毎年旧暦5月18日にだけ、応挙の描いたその女性が公開されているの。
次のその日、煙の向こうから、誰が現れると思う?
